(mixi過去ログ 2007年06月06日11:15 より)
◆遠藤賢司リサイタル@渋谷AX 2007/6/5
遠藤賢司(vo,g)
guest(第二部のみ):
細野晴臣(b)
林立夫(ds)
鈴木茂(g)
「遠藤賢司リサイタル」6/5 渋谷AXに行ってきた。
大体ライブは一人で行ってた。
客席見回しても、そういう人多かった気がする。
結婚してから、かみさんに子供任せて出かけるのも
気が引けて、また、僕が見たい奴には、
かみさん付き合わせるのもちょっと難しい類が多いので、
めっきり少なくなったけど、
今回は特別で、ひとりで出かけた。
そういうのは、
結婚してから、シネマの再結成ライブ以来2度目だ。
私にとっては、97年がエンケン・イヤーだった。
10年前。30歳。
当時の新譜、『夢よ叫べ』にもの凄く感動して、
当時苦しんでたオレはかなり励まされた。
同時に、数年前に買ってあった『不滅の男』(2枚組)を
繰り返し繰り返し大音量で鳴らして、
長い長い「輪島の瞳」や「外は雨だよ」に
どっぷりはまっていた。
一人の男の生き様を見せつけるものだったから。
それから、早いもので10年。
彼が還暦、オレが40だから、オレの20歳上ということになるのか。
久しぶりに『夢よ叫べ』を聴きたくなって、
数年ぶりに引っ張り出した。
「俺は勝つ」「荒野の狼」「夢よ叫べ」・・・
魂の名曲のつまった当時十数年ぶりのスタジオアルバム。
エンケン50歳の作品は、
40になったオレの胸にまた突き刺さってしまったんだ。
それで、
どうしてもライブが見たくなった。
勇気をもらいたかったのだ。
それで、AXに出かけた。
予想通り、遠藤賢司は、芸歴40年というのに、
たぶん本質的なところは、何も変わっていない。
変わらぬ芯を通すことに、人生かけている。
一曲一曲、喉を枯らし、
酸欠状態でぶっ倒れる。
そして、ひとりぼっち。
すごい人。
優れた芸術には、「寂しさ」が、必ず感じられるもの。
それは、つきつめた人間のつきつめた表現は、
他を寄せ付けぬ強さを持つが故に、
孤高だから。
ひとりきりの彼は、本当に美しく、
それ故に、
うかつに触れてはいけないものになってしまう。
聴き手も又寂しさを感じるのだ。
決して、簡単に一体とはなれない人なのだ。
「天然記念物」とか、
「人間国宝」とか、
「秘宝」と言う言葉がついつい頭をよぎってしまう。
こんな才能はほかにはないもの。
そんな力いっぱいの彼が、
第2部で、尊敬する旧友、
細野晴臣・林立夫・鈴木茂の3氏と共に演奏するときには、
まるで子供のように、やさしい演奏で、
この一瞬、ひとりぽっちでないことを確認しながら、
でも、それが、奇跡のような瞬間であることを
本当に大切にしながら演奏してることが伝わってきた。
なんてまっすぐな人なんだ!
轟音のエンケンバンドや弾き語りで見せる
せっぱ詰まったギリギリの力強さの一方で、
同じようにギリギリの寂しさと戦っている人なんだと
そりゃあ見てる全員が知ってる。
こんな才能は、どこにもない。
そして、そういう才能は、
実は、
我々にも可能性としてはある。
それが人間というものなのだ。
だから、お前一人しかいない自分を大切にしろと、
ただそれだけを強烈にメッセージとして受け取る。
美しいものを見せて頂きました。
エンケン。
本当にありがとう。
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<自分によるコメント1>
20世紀中盤を代表する偉大な指揮者フルトヴェングラーの研究家宇野功芳は、フルトヴェングラー研究の自著で以下のような言葉を述べています。
「宗教が結局は自分の心を見つめるものであるならば、芸術もまた同じだ。人間の心を凝視し、表現するのが芸術の本質だと思う。それだからこそ、“真の芸術”は時代を超えて生き、鑑賞する者の胸を打ちつづけるのである。そして人間が本来持っている、歓びや哀しみ、やさしさや憧れ、欲望や憎しみのようなあらゆる感情の中で、僕は、〈情熱と寂しさ〉こそ根本になるものと信ずる。」
私も、この言葉に激しく同意します。
彼は、そのような〈情熱と寂しさ〉を持っている超一流の芸術家の一人として、フルトヴェングラーを評価しているのですが・・・
〈情熱と寂しさ〉とは・・・
まさしく、私達がエンケンから感じるものにほかなりませんよね!
思えば、フルトヴェングラーが最も得意とし、演奏回数も圧倒的に多かったのがベートーヴェンでした。
「歓喜の歌」
つながっているような気がしてなりません。
そもそもベートーヴェンの芸術もまた、〈情熱と寂しさ〉を兼ね備えたものであったに違いないですから。
ゆうべ、彼が人間の心を凝視した結果として生まれ出ずる〈情熱と寂しさ〉を見せつけたこと、それは、自分の心を凝視する体験でもありました。
だから、私は、ゆうべから生まれ変わったような気さえしているんです。
お前がやらなきゃあの夢は 二度とは瞬かぬ
ソウサ~ ソンナ~夢に負けるな友よ
夢よ叫べ
この歌の意味を、これまでよりずっと強く知らされた夜でした。
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<自分によるコメント2>
卑近ですが、私も、趣味が流行り物とかでないから、孤独だって思ったりしてました。
また、会社を経営してるので、経営者って孤独だ・・・なんて、よくよく思ったりしてしまいます。
でも、ゆうべ改めてエンケンに教わったのは、
人間は、誰であれ、
己が人生を本当に突き詰めれば、
(彼の表現を借りるなら「命を燃やす」なら)
その先に待っているのは、「孤独」なんだってことでした。
「甘ったれるなよ!」
孤独に耐えろって、
そして乗り越えろって、
彼は言ってるように思えてなりませんでした。
なんてことでしょう?
人間は、必死で努力してがんばって、
でも、その先に待っているのが「寂しさ」だなんて。
僕は、そんなのイヤだな。
でも、それが、たぶん、人間の真実だし、
そうであれば、寂しくない。
自分ひとりが寂しいわけじゃないから。
自分を貫いている人はみんな同じだから。
そう言ってるんじゃないかなって、
彼がひとりのときと、セッションのときの違いから、
すごく感じました。
そして、4人とも別の人生を歩み、
各々の演奏は見事に孤高でしたよね。
だから、人真似で安易に群れるなって、
ついついエンケンはお説教みたいな歌も歌います。
そんなことしたって、寂しさは埋まらないんだぞ!
って言ってるような気がします。
その通りだって思うんです。
子供のいじめってありますよね。
寂しいから群れる。
群れない人は、仲間はずれでいじめにあっちゃったり。
確かに、同じ趣味とかそういうもので人は固まりますけど、
でも、そうしたら寂しさはなくなるの?
って言えば、
そんなことはない。
究極は寂しさなくなりませんよね。
自分と同じ人間はひとりもいないんだから。
違いを認める。
孤独を認める。
覚悟を決めて、自分の道を行く。
そうすると、「俺は寂しくなんかない」って
言えるんだって思うんです。
そうしてる奴らを知ってるから。
オレだけじゃないから!
・・・でもでも、それは「強がり」です。
そりゃあ寂しい。
寂しいのは、嫌ですね。
そういうところ、ものすごく裸で出してくるから、
エンケンは胸に来るんですよね!
でも、究極、それはどうしようもないことですよね。
たとえば、ゆうべのセッションは、人生の中で一瞬の出来事。
最高ですよね。素晴らしい瞬間。
そういう最高の瞬間を手に入れるために、
孤独な道を進むんだってことなのかもしれません。
細野さんとエンケンさんは、友達だけど、
音楽の志向はまったく別のものをやってる。
でも、自分の道を行くということと、
そうしている相手に対する敬意で、
互いに認め合っている。
だから、寂しくない。
そして、きっと寂しいのだろうと思うんです。
そして、彼らが孤独で、よかったって、思ってしまいます。
彼らがそれぞれ唯一無二なのは、
彼らがそうあることによって引き受けている
「寂しさのおかげ」なんですもの。
それを引き受けてくれているおかげで、
僕らは、彼らの素晴らしい仕事に接することができる。
オレは、そこまで行けるのか?
オレは、そこまで耐えられるのか?
オレは、そこまで命を燃やせるのか?
情熱と孤独。
出来る。きっと。
だから、・・・夢よ叫べ。
今は、そう信じて、覚悟を決めて、がんばろうって気持ちです。
そういう「美しい人」を見てしまったから。
(・・・ひええ。まとまりのない文章だ。〈情熱〉だけで書きましたんでどうか御容赦を!)